しくみ通信

平成30年「第10の新月の日に」を読んで 

平成30年「第10の新月の日に」を読んで                2018/10/11日

表紙のマーク・トウェインの格言

「死んだときに 葬儀屋さえも 悲しんでくれるぐらい 一生懸命生きよう」この格言いいですね!   当時の葬儀屋は、死者の顔を見れば生前その人がどんな生き方をしたか見分けがついたんでしょう。だからこそのトウェインの思いなんでしょう。

さて、日本も世界もおかしい気がしてしょうがない。ほとんどの人が今の世界が見えていない気がする。この言葉、その通りだと思います。だからて、私は判っているなどと云うつもりはありませんが。今の世の中、とてもおかしいですよ。タガが外れた桶の様に、何時壊れても、そんな感じかな

例えば、マーク・トウェインの格言の一生懸命生きようと言う“一生懸命”という言葉が今の人々には理解でき無くなりつつあるのではないでしょうか。

生きる為に、家族の幸せのために、懸命に働く。その事そのものが子供たちにとっても、地域社会にとっても教育面と地域活性化にもつながると思うのですが、昨今の状況からは、今までの崇高な労働の価値を示す言葉がどんどんと形骸化してしまっているように思われます。

資本が資本を生む(金が金を生む、資本主義だから・・・)代表的なのが、中学生から主婦層まで、コンピユーターゲーム的な(言葉が余り適切ではないが)投機に走り、昨日はいくら儲けたとか、短時間で大金を手にしたとか、一昔前はある程度の範囲の中での出来事が、昨今のIT化とグローバル化の中でこの手の情報は特に瞬時に拡散します。

結果、人々の欲望を刺激し、マネー第一主義の風潮がますます強く意識され、一方で,証券市場は官製主導の株価操作により、企業業績とかけ離れた株高で景気の良さを演出し庶民を騙す。その上、大手企業を筆頭に偽装工作のオンパレード等々、これでは、真面目に一生懸命に働く意欲がそがれ、ますし、一生懸命考える事もやめてしまうかもしれません。

さて、世界を牛耳るプラステックワード、合成樹脂の様にできた言葉だから、一応の成型はいくらでもできるが、体温も生活も感情もない。絶妙な解釈で、とても興味ある話題です。

日本人は横文字に弱く、この手の言葉を多用する人を賢いと思う風潮がありますから。なるほど、プラステックも使い過ぎると害になりますが、プラステックワードも同類なんですね。

さてさて、ハラリ氏の“ホモ・デウス”はまだ読んでいませんが、経頭蓋直流電気刺激装置に関しての話も面白いです。 

その中で、完全な静寂と完全な集中の話。人間て完全な無音状態で暮らすことは出来ないんですね。雑音が在る意味、人間にとってのスタビライザーなのでしょうか?。

以前私が経験した交通事故の時、数十秒のことですが完全な静寂と完全な集中を経験した事が在ります。その時は、知覚機能から音は完全に遮断されましたが、視力と視覚が異常に鋭敏になった経験です。その結果でしょうが、事故に即座に対応することが出来たため、即死だったかもしれない状況から、無傷で無事だったという経験です

人間の脳は生きる為に色々な事柄を常時【チャンネルから出る知覚的な感覚が時としては必要でないものだったり】選択をしているはずですから。その選択の自由が、完全な静寂と完全な集中によって妨げられる。その結果どうなるのか?面白い話です。

さて、事実を事実として見る、これって!簡単なようでなかなか難しいですね。

視覚で見ていることと、脳で感じている事のズレみたいなこと、たとえば、人間の眼て、網膜では写しとっているのでしょうが、ニーウロンを通じて脳に届いたときにはズレが生じる。

そのズレの原因は、人の欲だったり、エゴだったりの感情から来る信号ではないでしょうか。物事の失敗の因は、ほとんどがこのあたりから生じるのでしょう。

最後の、アニル・セフ氏の話、上述の話にかぶさりますが、脳が送り出す事実は、その人が見たいものと意識したものを見るという事。

この話で、思い出しました。インドの童話の“7人のめくらと像”の話です、

物語の結論として王様曰く、誰もが、自分だけの世界から周囲を見ていて同じ人はいない。全員違っていて全員違う世界を生きていて、相互に矛盾していても誰もが正しい、この世は、そんな世界だよ。という話です。

セフ氏の3つの提言に関して2番目の話はなるほどな~と思います。そして、全体としては、そうだよね!て理解できます。

 

有難うございました。今回も大変に勉強に成りました。

“一生懸命”この言葉、スポーツ界ではよく聞かれますが、昨今一般では聞かれなくなりました。世の中変わったという事なんでしょうが、これでいいのかな~と思いますね。