しくみ通信

要約 皇紀2678年 2018年 平成30年 第7の新月の日に 

皇紀2678年 2018年 平成30年 第7の新月の日に

 

私の良心は之が為に毫末も曇らない。日本国民は私を信じてくれると思ふ。

(『世紀の遺書』本間雅晴「辞世」より)

これは、「泣き虫将軍」と呼ばれた本間雅晴陸軍中将(18871946.4.2)最期の言葉です。

フィリピン攻略戦で殊勲をあげながらも、大本営に評価されず、「ポツダム宣言」受諾後は、マッカーサーから真っ先に戦犯に指定され、マニラ護送後に裁判にかけられ処刑されました。

 

「予てより捧げし命いまここに死所を得たりと微笑みてゆく」

 

本間中将は小さい頃から泣き虫で気が弱く、喧嘩を一切しない人でした。貧しい子どもを見れば涙し、不遇な者がいれば手を差し伸べました。そんな彼が、なぜ太平洋戦争でマッカーサーをフィリピンから追い出すという「奇蹟」(マッカーサー元帥戦歴で唯一の敗北記録)を起こし、軍人として生き抜いたのでしょう。

 

本間中将は191821年までイギリス駐在武官でしたが、その頃、離婚を苦にして自殺未遂を図りました。一命を取り留めた彼が、子どものために生きようとするものの職はなく、我が子のため、そして祖国のために軍人として生き続けることを決意したのでした。

 

「恥多き世とはなりたりもののふの死ぬべき時を思ひ定めぬ」

 

本間の処刑は、マッカーサーの復讐劇であったといわれています。

太平洋戦争において、本間は第14軍司令官としてフィリピン攻略戦を指揮し、第14軍はマニラ市の占領に成功します。マニラ進駐の際には、将校800名をマニラホテルの前に集め「焼くな!犯すな!奪うな!」と訓示し、違反者は厳罰に処すと伝えたといいます。

 

「戦友眠るバタンの山を眺めつつマニラの土となるもまたよ志」

 

マッカーサーが詩歌を奏すると聞いた本間は「文武両道の名将だね、文治の面でもなかなかの政治家だ。この名将と戦ったのは僕の名誉で欣快だ」と、敵将マッカーサーを褒め称えたのですが、皮肉にもその名将の恨みを買い、彼は処刑されることになります。

 

本間は二度の結婚を経験しています。

初めの妻智子とは1913年に結婚しました。智子は参謀次長をつとめた田村怡与造中将の娘でしたが、自由奔放な生活を送り、周囲から顰蹙を買う行動が目立っていました。

 

二度目の妻である富士子は、戦犯裁判に証人として出廷した際、

「私は今なお本間の妻たることを誇りにしています。私は本間に感謝しています。娘も本間のような男に嫁がせたいと思っています。息子には、日本の忠臣であるお父さんのような人になれと教えます。私が本間に関して証言することは、ただそれだけです」と陳述し、その毅然たる態度に本間本人はもちろん、裁判官検事も感動の涙を流したといわれています。

 

「栄えゆく御國の末疑わずこころゆたかに宿ゆるわれはも」

 

富士子は戦争に対する批判を一切せず、夫を有利に立たすことなく、誰を恨むこともなく、天()に語り掛けたのでした。

 

「甦る皇御國の祭壇に生贄として命捧げむ」

 

"I shall return"

この言葉は「泣き虫将軍」からの箴言なのかもしれません。

 

 

鶴田勝巳税理事務所 所長・鶴田勝巳の通信より