しくみ通信

通信 第8の新月の日に

イエス・キリストが最後に遺した7つの言葉。
第1の言葉「父よ、彼らを赦して下さい。なぜなら、彼らは何をしているのかわからないからです」(ルカの福音書23章34節)
第2の言葉「アーメン。あなたに言います。あなたは今日私と共にパラダイスにいます」(ルカの福音書23章43節)
第3の言葉「女よ、そこにあなたの子がいます。そこに、あなたの母が」(ヨハネの福音書19章26節-27節)
第4の言葉「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか)」(マルコの福音書15章34節)
第5の言葉「私は渇いている(ディフォー)」(ヨハネの福音書19章28節)
第6の言葉「終わった(テテレスタイ)」(ヨハネの福音書19章30節)
第7の言葉「父よ、私の霊をあなたの手にまかせます」(ルカの福音書23章46節)

一般的にキリストは多くの民の代表として〈殉教〉を望んだとされていますが、〈殉教〉とは、神の御許に行くという意味で、死によって神と共になり、神の祝福と慰めにあずかることです。しかし、十字架にかけられたキリストの死は、そうした死とはまったく異なっています。キリストの死は、神から引き離されることでした。すべての人の罪を担い、人々の身代わりとなって死ぬということでした。人々の罪をその身に負ったキリストは、死の際で神から「捨てられた」のです。
キリストは十字架の上で、生の根源である神から無限の隔たりに追いやられました。
救いの道は、そのような激痛と悲哀を通して開かれたのです。
「わが神、わが神、どうして私を見捨てたもう」
この最期の言葉には、人間イエス・キリストの真実が刻印されているのです。

「まだ死にとうない」
これは、「一休さん」の愛称で知られている一休宗純(いっきゅうそうじゅん)という僧侶の最後の言葉です。
「人は自分の為に頑張るもの」「何事にもとらわれるのは良くない」「世の中の事は表裏一体」「散る間際こそ美しくありたい」「大丈夫だ、心配するな、なんとかなる」「正月は、冥土の旅の一里塚。めでたくもあり、めでたくもなし」「自心すなわち仏たることを悟れば、阿弥陀に願うに及ばず。自心の外に浄土なし」「世の中は食うて、糞して、寝て起きて。さて、その後は死ぬるばかりよ」等々、一休さんは数々の名言を残しましたが、高僧一休宗純の最期の言葉が「まだ死にとうない」でしたから、周りの者たちは驚きました。
一休さんは死を恐れていたわけではありません。人は誰もがあの世には行きたくないもの、もっと生きたいもの、生きていることが「自由なる人生なのだ」と伝え置くために、「死にとうない」と、心にもないことをつぶやいたのです。
イエス・キリストも同じく。「わが神、わが神、どうして私を見捨てたもう」と自らが言うことで、人々に「自由に生きねばならない」ことを伝えたかったのでしょう。

第8の新月の日通信は「イエスの最期と踊らされる人間の熱狂心理」「情報社会とAIとITの共通理解」「人間社会とコミュニケーション」「世界の報道と自由」「マイナンバーセキュリティ」をお届けしています。