2018.07.29
梅の花の下で
梅の花の下で
ある葬儀でのこと。
とても静かな葬儀が終わり、納骨までお付き合いすることになりました。
あたりは梅の花の香りでいっぱいの山の中にある墓地。
納骨には、亡くなった人の妻と一人息子、私の親友とその妻のわずか五人でした。
天候のせいもあるのでしょうか?
とても暖かく穏やかで、ピクニックに来たかのようです。
お墓近くの梅の木の下にシートを敷いて、お弁当となりました。おにぎり、御新香、から揚げ、卵焼き…まるで花見のようです。
納骨される人は私の先輩であり、親友の姉の御主人です。
73歳という若さでしたが、肺癌の手術に失敗してしまいました。肺癌の手術で胸をあけた時点で肺結核がわかり、驚いた医師はその場で手術を中止したそうで、そのまま急逝してしまいました。
医師は家族に深い謝罪をしたそうですが、家族は何も言わず、丁重に頭を下げて御礼を言いました。
死というものは予期しなくとも自然に襲って来るものです。
しかし、御主人を失った奥さんと一人息子は笑顔でいっぱいでした。
親友も何かから解き放れたかのような笑顔でいっぱいです。
この明るさは一体どこから来るのでしょう…。
この世を去った人の悪口などは言いたくないのですが、故人は祖父母を九州に持ち、満州で生まれ育ち、敗戦とともに兄弟二人で日本に引き揚げて来ました。
仕事は税理士だと言っていましたが、本当は資格などありませんでした。
この日、たった一人の実兄は来ませんでした。
お金には煩く、戦後から貧乏生活を味わってきたためか、お金の亡者のような人でした。
ある時は裏で金貸しをして、厳しい取り立ての仕事をしながら、財を成し遂げてきました。また、腕っぷしも強く、親友も私も、若い頃は争っても勝てないくらいの強さがありました。
彼のところには、ヤクザまがいの者たちが出入りをしていて、昼間の顔と夜の顔を持ち合わせていました。
姉の御主人なので、親友は義兄のその人に一目を置いていた時期もありましたが、あまりの傍若無人振りには耐えかねていました。
今でいうパワーハラスメントだったのでしょう。夫からの暴力を受ける生活の中、姉は子どもの為だけに40年間の結婚生活を耐え続けてきました。
一人息子は勉強のできる才能のある子でしたが、鬱病となり10数年間も家から出ていません。親友は何度も二人を引き取ろうと頑張っていましたが、現実にはうまくいきませんでした。
まだ二月だというのに、あたたかな小春日和。
高校生の頃からの付き合いでしたから、あの頃に戻ったかのような気分になっていました。
時間が逆戻りしたかのように、しばらくの間、時が止まっていました。私以外は心からの自然な笑顔で、すがすがしく晴々とした表情をしていました。
不謹慎だったかもしれませんが、「良かったね…」と、私は言いました。
すると、四人とも「うん、良かった…」と答えます。
納骨の日だというのに、言い知れぬ不思議な感覚でした。
こんな感覚は、生まれて初めてのような気がします。
「よく頑張ってきたね…」
「うん、頑張ったわ…」と、姉が答えます。
そこには悲しみの涙などありません…。
そこにあるのはあたたかな笑顔だけです。
一人息子も外出は何年ぶりなでしょうか。
色白の日陰のモヤシのような青白い顔に赤みが射しています。
まるで梅の花みたいに。
「わたし、今年で66歳になりました。20歳で結婚したので、46年間アウシュビッツ(ナチスの強制収容所)にいたみたい…。犯罪者が刑務所から46年ぶり出所してシャバに出た感じ。世の中のことはあまりわからないけど、これから好きな事をしたい…46年間を取り戻すのよ」
親友は笑いながら言いました。
「もう姉さんはババアだよ…誰も相手にしてくれないよ」
「ふん、そんなことないよ。こんな私でも愛してくれる人がいるかもよ…」
一人息子も母を気遣うかのように、微笑みながら言いました。
「僕が母さんの面倒を見るから心配ないよ…」と。
また親友が言いました。
「お前、もう35歳だぞ…どこも雇ってはくれないぞ」
「そんなことはない、叔父さんの所で働くよ。叔父さんだって、もう年だから…」
皆で大笑いでした。
(現在、叔父である親友は自社の代表取締役に、この甥を迎える準備をしています)
「ねえ、私まだ66歳よ…あなたたちと比べたら、見た目はずっと若いわ」
そう言われると確かに、親友と私の方が年寄りに見えてきます。
そこで、また私は不謹慎な質問をしました。
「ねえ、長い間よく我慢してきたと思うけど、今はどう思っているの…?」
「…何も無いわ、何も無いのよ…。恨みも憎しみも何もないし、苦しい思い出もない。だって私は望んでここまで生きて来たのだから…」
「何を望んできたの…?」
「逃げずに、あの人を見続けようって…」
「好きだった、ということ…?」
「違うわ。たとえ殺されたとしても、息子を守り続けるって誓ったの。だから離婚しようなんて考えなかった…」
「それは、復讐…?」
「それも違うわ…、それ以外に生きる道がなかったのよ…弟もいるし…」
「それは、犠牲なの…?」
「…いつか来る、この日を待ったの」
彼女は一瞬暗い表情を浮かべましたが、すぐさま笑顔に戻り、目の前のおにぎりを食べ始めました。
私にはよくわかっていましたが、あえて四人の前で話しました。
親友は、会社が倒産した時、取立人に追い込まれ逃亡生活を強いられ、この姉の主人の会社に引き取られ、奴隷のように働いて来ていたからです。
肉体労働を強いられる仕事に安い賃金で匿わられていました。
親友も長い間アウシュビッツ収容所にいたのです。
私の会社がつぶれる前日に「生きろ!」「死ぬな!」「逃げるな!」「闘え!」とエールを送り、支え続けてくれた親友です。(このお話は「それでも人生にYESを」に掲載)
そして、いつの日か姉とその息子を引き取るために新たに会社を興し、迎えに行く準備をしていた矢先に、この納骨の日となったのです。
姉はその弟を信じ、この日を待ち続けて来たのでした。
そう、今日はお別れの日ではなく、長い年月を経て、弟がようやくお迎えに来てくれた日だったのです。
どうやら、泣いているのは私だけのようです。
あまりにも明るい笑顔で、これからの日々をお迎えする記念日でした。
私はまた、不謹慎な質問をしました。
「どうして我慢できたの…?」
四人とも静かになりました。
「夫のことは許し続けて来たわ。そして、今日で何もかも、すべてを許すことにしたの…。自分のことも許すことにしたの…。今日は、私の卒業式なのですもの。こんなにめでたい日はないわ。桜の季節なら、もっと雰囲気が出ると思うけど、梅の花でいいや…」
そう、卒業式。そして進級、入学式なのですね。
これから新しい生活が始まるんだね。
良かったね…。
おめでとう…。
ありがとう…。
私たち五人はお線香を上げて、あたたかなすがすがしい空気を吸い込み、青い空を見上げて、次にまた逢える日までと、笑顔で手を振り合いました。
©Social YES Research Institute / CouCou